僕はとっても偏った思考をもってしまっていて、
自分が気に入ったものや信じたものに対して妄信的になってしまうところが多々ありました。
それを否定されると条件反射でイラッとして、そして相手を否定してしまう。
これでだいぶ損をしてきたと、今は強く思います。
自分が信じたものは神
自分が好きな人の考えや言葉は無条件で信じてしまい、
そんな人からの助言や忠告は素直に聞き入れる。
もう信者に近い状態に、割と僕はすぐなる奴でした。
人を見る目をすごく磨いて、
いろんな経験をして、たくさん学んで、
その上で人や人の意見を判断できれば良いのですが、
当時の僕はそれが出来ていると思っていました。
勉強している方だと思っていたし、
いろいろ経験していると思っていたし、
世の中の普通(何が普通なのかっていう話ですが・・・)と比べたら、
まともな方だと思っていたんです。
だから好き嫌いも激しいし、
人の意見を満遍なく平等に聞けない。
自分が信じた人が間違っていた場合、
見事に自分も間違った方へいってしまう。
結果間違ったなぁと思う選択をたくさんして、
痛い目を見たことももちろんあります。
それでもなかなか直らなくて、そして気づくことすらできなかったんです。
転機は自分に矢印を向けたこと
たくさん痛い目を見た後に、僕は一切の情報を遮断して、
いらないものを捨て、
いらないと思える環境を捨て、
いらないと思える知人関係を捨てた時期があります。
もう捨てるものが無いってくらい捨ててみたら、
自分と向き合う時間が自然と増えました。
この時にひたすら自分に問いかけ続けました。
自分は何がしたいのか?
自分はどういう風に生きたいのか?
自分は何が不安なのか?
自分は何にイラつくのか?
どうしたい?
何がしたい?
問いかけ続けていくと、
どんどん自分の心の奥底にあった感情がじわじわと出てきました。
僕は常に他人を気にしていて、
本当は安心が欲しくて、
本当は心から楽しめる仲間が欲しくて、
本当は自分のことに一生懸命になりたかった。
そんな本心とは裏腹に、その時の僕は、
他人を気にしないフリをしているけど常に気にしていて、
自分は正しいと虚勢をはってはいるけど否定されたくない心でいっぱいで、
愚痴しか言わない慰めあうような関係が実は心地よくて、
自分の夢に向かっているように見られていることが大事で、
結果的にいつも自分の本心は置き去りにしてしまっていました。
自分に向ける時間がたくさん増えて、
必然的に自分と向き合っていく中で、
いろんな面を含めて、それも全部自分だなと認めることができ、
そして、
これまでの自分でうまくいかなかったのだから、
このままではいつまで経ってもダメだと理解し、
自分の本心を大事にして、その気持に正直に生きていこうと思いました。
誰になんと言われようとも、
誰かが自分の人生を見て笑おうと、否定しようとも、
自分はこの生き方が楽しいし、これでいくんだと心から思えるようになりました。
すると余裕が出てきたんだと思います。
他人の意見を俯瞰して見れるようになり、
自分と違う人や意見が現れたときに、
もしかしたら自分が違っている?間違っているかも?と、
一歩引いてみれるようになりました。
もちろんそうやって俯瞰して状況や考えを判断して、
その上でも嫌いなものは嫌いですし、
無理に付き合おうとは思いません。
でも何でもかんでも嫌だ、無理、で切り捨てるのではなく、
一回引いてみる事で、その中から得るものが確実にあることが理解できました。
自分に矢印が向いていて、芯がしっかりしていれば、
どんな意見でもひとつの意見として捉える事が出来るようになります。
判断するのはそれからでいい。
自分は絶対に正しいという思い込みは実はとっても危険な思想なんだと思います。